研究の概要と対象地域
片柳先生は小学校から中学にかけての約3年間を父親の仕事の関係からエジプトで過ごした経験がある。その時にはまず、自身とまったく異なる状況に置かれている子ども達を目の当たりにして、大変なカルチャーショックを受けたそうだ。その後、大学ではフランス語学科に学び、国連で働くことを漠然と夢見ていたが、現実味はなかった。修士課程修了後、国際法律事務所勤務ののち、英国のエセックス大学にて1年の修士課程で国際人権法を修得。博士課程への入学を延ばして国連PKOの仕事にあたり、博士課程修了後に在ボスニア・ヘルツェゴビナ日本大使館の専門調査員になる。さらにその後同国の国際機関で5年以上にわたり平和構築に携わるという経歴を持つ。
こうした経験のなかで、平和維持・平和構築の仕事に長く携わった先生は、当初の「開発」から「紛争と平和」へとその関心がシフトしていく。現在の研究の柱は、「人権に基づく平和構築」、「HLP(Housing, Land and Property)権」、「ビジネスと平和構築」の3つ。研究の対象地域はボスニア・ヘルツェゴビナが中心だったが、サブサハラ・アフリカ、フィリピンのミンダナオにも関わりを持ち、今後も平和構築というテーマを軸に研究の幅を広げていこうとしている。
専門領域: 平和構築、国際人権法 Peacebuilding, International Human Rights Law
人権に基づく平和構築
この研究のアプローチは次のようなものだ。まず人権の状況がどのようになっているかを観察し、そうした人権状況を生み出す社会のあり方を観察する。人権をレンズにして、社会のひずみを発見するというもの。
「人権にはさまざまなものがありますし、いま実現されていない人権も実現しなければなりません。個々の人権だけを見るのではなく、幅広い意味で人権がどのような状況にあるのか、人権侵害が起こっていたり、見過ごされている人権があればその状況を引き起こしている社会というのはどういう構造なのかを見ていきます」と先生。
社会関係、例えば政府と国民の間の権力関係から往々にして人権侵害が起こる。その仕組みや関係性を把握して、社会のあり方を正す方向に開発の手助けを考えていくのが「人権に基づく開発アプローチ」であり、国連を中心にこうした動きが主流化しつつあるのだが、これと同じようなことが平和構築でもできるのではないかというのが先生の考え方だ。
片柳先生の場合、スタート地点が人権であり、人権は常に研究の基盤にある。そのため、人権に基づく平和構築という考え方を先生は数年前に提唱し始めた。当時はこうした観点の研究はほとんど見られなかったが、最近は海外で同様の主張をする研究者が増えてきており、この考え方が広まりつつあることを感じているという。
そして、平和維持と平和構築の関係についても言及する。「以前はまず平和維持を行い、紛争終了後に平和構築を行うと考えられていましたが、現在は平和維持と平和構築は背中合わせと言われています。つまり、平和維持の間に平和構築の活動を開始します。実際に私が平和維持の現場で携わっていた人権監視の仕事というのは、平和維持活動のひとつであるとともに、平和構築の一部とも言えます。現場での経験から平和維持と人権の関係をテーマに書籍を出版しましたが、当時はそれ自体珍しい研究テーマでした。現在はさらに人権をレンズにして紛争を経験した社会を平和な社会に作り替えるというアプローチを私は考えています。」
土地・不動産と平和構築
前述の人権からつながるのが、「土地・不動産」に関わる問題だ。これにはHLP権(Housing, Land and Property Rights)という新しい権利が絡んでくる。先生によれば、「国際人権条約によっていろいろな人権が規定されているわけですが、HLP権についてはまだ原則があるだけで条約はない。つまり、法律上、人権として確立されていないんです」とのこと。
最近、その確立に向けた動きがあるなかで、先生が取り組んでいるのは、HLP権と紛争との関係だ。
「例えば、開発の場合には、ダムを建てるときの住民の立ち退きがこの権利に関わってきます。紛争の場合、頻繁に問題になるのは『強制移住』で、国内で異なる民族の間に戦いが起こり、一定の地域から他の民族を追い出そうとする民族浄化と言われる状況が多くの紛争で起こっています。」
先生はこうしたことについて、特にボスニア・ヘルツェゴビナの事例を詳しく調べている。
「ボスニアでは、出ていく人に不動産の放棄書を書かせて追い出すというやり方が見られました。不動産を取り上げるという意図が明らかで、そうして帰ってこられないようにしようとする訳です。」
ボスニア紛争での強制移住は、いわゆる「民族浄化」の目的で行われていた。しかしその後、国際機関の力で放棄書は無効となり、奪われた不動産の90%以上が元の持ち主に返還されたという。
「ボスニアは大変特殊な例ですね。普通は暴力的に取り上げられたものはほとんど戻ってこない。しかし、こうした事例から、どうやって対処できるのか、あるいはどう予防できるかなどを考えることができます」と先生。
また、もう一つ多い事象としてあるのが「ランドグラブ」という大規模な土地の収奪である。これは、例えば多国籍企業などが食糧危機を見込んでアフリカの広大な土地を買うというような動きで、紛争後は一つの商機として急速な動きが起こりやすい。
「買い方が問題なんですね。発展途上国には土地登記がないところが多くて、賃借や所有権の証明もない。何年も耕している土地でも権利を証明することができなければ、多国籍企業による土地買収の話が持ち上がった時には国有地・公有地として売却されてしまう。多くは無条件に、補償がある場合でも、非常に条件の悪い土地を代替地にされ、抵抗すると死者が出るなど、理不尽なやり方が横行したりします」と先生。
そこで先生は、こうしたことが起こった場合にどうやって解決するのか、どのように対策を取ればいいのか、そういうことが起こる社会構造はどんなものか、といったことも一つのテーマとして研究している。
その際に気をつけているのは、「その国の文脈をよく理解する」ということだ。「平和構築は試行錯誤の連続で、成功例は次の事例にあてはめようとしますが、ひとつのモデルをどこにでもあてはめられるということはありません。それぞれの国や地域ごとに考えていく必要があるんです。また、紛争の歴史が長いほど解決が難しいとも言えますね。」
例えばボスニアでは不動産返還が行われたが、ルワンダでは、紛争後に帰還した住民と住んでいる住民が「土地分割」という形で土地を折半し、両者が共存している。あるいは、フィリピンのミンダナオでは、過去に起こった人権侵害を認定・処罰する「移行期正義」が土地問題を取り扱うなど、国や地域ごとに対応策はさまざまだ。先生はこうした新しい取り組みにも大きな関心を寄せている。
ビジネスと平和構築
これはまだ新しい研究だが、ボスニアでの経験から、“ビジネスには平和に貢献する力がある”という着想を得て始めたものだ。
「ボスニアにはカトリックとセルビア正教、イスラム教と3つの宗教があり、元々は共存していた集団が、紛争によってお互いの間に高い垣根を持つようになりました。ビジネスにはその垣根を飛び越えさせる力があると思うんです。実は紛争の間でさえ、ビジネスであれば民族を越えて行われていたんですね。ビジネスをツールとして使うことによって、分断を越えられる。それは共通の利益を見出すことによって、垣根を越えて普通の関係をつくり出すことができるからでしょう」と先生は言う。
先生は、「ローカルオーナーシップ」、「主体性」「エンパワーメント」の3つから、ビジネスによる平和構築への貢献を考えていく。
「いま平和構築で問われている問題のひとつは強権を使うこと。国際機関が介入して強権を使うと、援助の場合と同様に、地元の主体性がだんだん失われていくんですね。そのために重視されるのが、『ローカルオーナーシップ』。オーナーシップは国際機関ではなく、地元の人が持たなければいけないという考え方です。ビジネスは主体性がなければできませんので、自ら取り組むことによって経済力を初め様々な力をつけていくことができる。つまりエンパワーメントです。生きる自信を回復することにもつながる、そういった図式を考えています。」
ビジネスと平和の研究は当初、ごく一部の経営学者が着目したものだが、いまでも学会などでは、「企業というのはそもそも利益を上げようとするもの。それが平和構築などということに取り組むのは考えにくい」という意見が強いという。先生はこれを真っ向から否定し、この研究の可能性についてこのように解説する。
「実際に平和のために動く会社も出てきていますし、一部の産業を除き、平和でなければ通常のビジネスは成り立ちません。最近では、平和な社会作りに参加することが企業の社会的責任の一部という主張も見られるようになってきました。また、持続可能な国際協力を考え、利益追求を目的とせずに企業という形態を選択する人たちもいます。企業だけでなく、すべてのひとにとって平和が課題になるような時代にこれからはなってくると思いますよ。」
「研究に臨む際には、とにかくひとが中心であることを忘れないようにしています」と片柳先生。
先生によれば、平和構築の研究者は政策や制度を見ていく場合が多いが、現場経験のある先生は、「制度もひとが動かすものなので、人々がどういう風に考えて行動し、どのように制度が機能するか、その制度によって人々がどういう影響を受けるのか、ということに関心があり、そこを見たい」と言い、日頃からこうした観点についても学生たちに説明してきているそうだ。
IDECでの教育・研究活動にも意義を感じているとのこと。「平和構築論という教育科目を持てるのは他ではなかなかないことですし、広島から発信するということにも大事な意味があると思っています。紛争を経験した国の人々は傷を抱え、将来に不安を感じている。廃墟から立ち直り、発展した広島は、そういう人たちにとって将来に希望を持てるモデルとなり得ます。」と語る。
IDECには世界各地から学生が集まっているので、多様な見方を議論しあえる場として学生が国際協力の現場に飛び出すため貴重な訓練の場を提供できているとも。そのため、「平和構築に貢献する日本人の学生も育てたい」とのこと。
国際機関で働くことに興味のある学生に対してもいろいろアドバイスをしたり、経験を語りたいと話す先生のもとに、多くの優秀な学生たちが集うことを期待したい。
片柳 真理 教授
カタヤナギ マリ
平和共生コース 平和構築研究室 教授
2001年1月~2003年8月 在ボスニア・ヘルツェゴビナ日本大使館・専門調査員
2004年4月~2009年10月 上級代表事務所(ボスニア・ヘルツェゴビナ)・政治顧問
2009年11月~2013年6月 国際協力機構研究所・研究員
2013年7月~2013年10月 国際協力機構研究所・主任研究員
2014年4月~2015年3月 広島大学大学院 国際協力研究科 平和共生講座・准教授
2015年4月~ 広島大学大学院 国際協力研究科 平和共生講座・教授