研究概要
先生の専門は国際政治学。とりわけインドを研究対象国に、アジア外交や国際社会の開発のあり方など政治にかかわる幅広い分野の研究を行っている。
学生時代、友人の誘いでインドに行ったことをきっかけに、インドへの思いが強まったという先生。当時はインディラ・ガンジー首相に焦点をおいたインドの対外政策研究に取り組んだ。情報の少なさから、3年9か月間に及ぶジャワハルラール・ネルー大学での留学中は、手さぐりで文献を探し、図書館や博物館などあらゆる文献所蔵施設に通ったという。
現在はインド政治や人類学の有識者の方々と協力し、連邦制をとるインドでの州ごとの比較政治研究にも取り組んでいる。
専門領域:国際政治学・アジア外交
インド研究への道のり
先生はインドの自立的な外交政策をテーマに研究していたが、当時の日本では国際政治学の分野でインド研究を専門にしている人がいなかったので非常に苦労したという。アジア経済研究所やインド大使館の図書室を使い、必死に文献を探したそうだ。その時のことを「目隠しをしてゾウを触るような感覚」だったと語ってくれた。インド留学中に雑誌や回想録、外交本、研究論文といった様々な文献に1年間ほど触れるうちにようやくインドという国の外交における背景理解が進み、自ずと研究テーマが絞られていったという。
「インドといえば何でも自国で作り上げるといったイメージが強いですが、独立時からそうであったわけではないのです。むしろ独立からしばらくは外とのつながりを持ちながら成長していました。60年代の後半には、より積極的に外国とのつながりを試みましたが挫折してしまい、結果的に自国でなんでもする国へと変わっていったんです」
また、インドに対する国際社会の支援のあり方も先生の研究対象の1つだ。
「発展途上国の中で、最初の外国為替(外貨)危機に陥ったのはインドでした。その際の国際的な支援グループであるインディア・コンソーシアム(インド借款団)ができるプロセスやその中でインドに対する支援をどのように作っていくのかを見るうちに、世界の国々の発展途上国に対する援助のコンセプトが変わってきていることがわかりました」
先生は現在も国際社会のインドに対する開発援助の変遷とそのあり方について研究を続けている。
平和構築事業への挑戦
先生は2005年から学内の平和構築事業であるHiPeC(広島大学平和構築連携融合事業)にも取り組んでいる。現在携わっている事業は、フィリピン・ミンダナオ島の自治政府で働こうとしている若者の研修を広島で行うという内容だ。
フィリピンは、全人口の9割以上がキリスト教徒だが、南部のミンダナオ島では地域人口の2割を超えるイスラム教徒が住んでいる。政府に対し、彼らは自治と独立を求め武装闘争を繰り返していたが、2019年2月、ようやくバンサモロ暫定自治政府の成立が認められた(バンサモロとはミンダナオ島におけるムスリムの判別的名称)。
「平和構築は事例・地域ごとに特徴が異なります。特にアジアは国家がしっかりしているのでなかなか独立という選択肢に至りません。そういった点で、インドネシアがアチェ州を独立させず特別州と置くのと同様のケースが、フィリピンにおけるバンサモロであると考えられます。」
インドネシア・アチェ州の人々は、東南アジアで最初にイスラムが伝播した場所として誇りを持ち、またオランダの植民地支配に最後まで抵抗し、第二次世界大戦後もオランダの再支配を拒否して独立戦争の補給地となるほど自立志向が強い。そのため2005年に和平協定で特別自治がインドネシア政府によって認められるまで、人々は独立国家の建設を目指していた。そのような背景から、バンサモロの人々とアチェの人々たちは交流が深いという。
「フィリピンは東南アジアの中でも数少ないカトリック教徒の国です。したがって国内のイスラム教徒は少数派に属しますが、周辺国を見渡せば大半がイスラム教徒です。そうした意味で、バンサモロの平和は、周囲のイスラム教徒との協力の中で前進する要素があると考えます。また日本も協力してきた地域で、日本に対する信頼も強い。だからこそ私達の事業も好意的に受け入れられているところがあると考えています。」
この事業を研究に盛り込むことを、先生は現在の課題としている。
開発援助における「対話」の重要性
先生の研究テーマにも関わっている開発援助とは何なのか尋ねると、国際社会の歴史を踏まえて語ってくださった。第二次世界大戦前後で国際社会の在り方は大きく変わったと先生は教えてくれた。
「第二次世界大戦以前の状況は、『遅れて来ても追いつけた。』しかし、第二次世界大戦後は科学技術の発展が早くなったこともあり、後で追いつこうにもなかなか難しい状況が生まれた。それに加えて植民地支配といった負の遺産を抱えていたため、先進国との間で、争わなくてもいいところで争わざるをえなかった。そういった点に配慮しながら援助するということに先進国が気づき始めたのが1960年前後でした。」
当初は援助を通常の「商業取引」ととらえていた先進国も、次第にその考えを変えていった。援助体制が転換期を迎えてからは、発展途上国の課題を一緒に考えられることが大事になったという。
「現地の人が現地で何を考えているかを理解しながらお互いの利益になるものをつくっていくことが大事だと思っています。プロセスが確立していないので、バランスをとることは難しいことですね。」
結局のところ強い国、つまり先進国が勝ってしまう危険性があると先生は指摘した。
「日本の場合は強すぎないところがあるけれど、日本人同士で固まってしまう危険性がある。そこを理解して相手国との『対話』をしっかり続けられること、これがカギになると思っています。」
現在取り組んでいる平和構築事業でも、その姿勢を心掛けている。それは、私たちが相手を知ろうとすることのみならず、現地の人との間にある溝を埋める作業といった意味があると先生は語った。
「研修で若者に講義をすると質問もよくするし、分かっているように見えていても、実際に試験をし、答えを皆で検討するとやはりずれているところがある。そのずれを話し合いの中で調整していく必要がありますね。」
一方通行のアクションでは不十分。だからこそお互い話し合える「対話」の役割は大きい。
「私たちの正しさを押し付けず、支援を受ける国のやり方を理解し、こちらのやり方とどう擦り合わせて良いものにするかを『対話』によって生み出していくことが重要なのだと思います。」だから、「あくまでもcooperationなのであり、私たちも途上国の人々と共に学んでいく姿勢が大切です」と語ってくれた。
学生への思い
入学を考えている学生への思いを尋ねると、「幅広い視野と関心を持ち、活動的であってほしいですね。」一人で勉強するだけでなく、外に出て色々な人と関わることもまた重要だという先生。どちらか一方に偏っているのも良くない、これらのバランスについて苦労を学生とも分かち合いたい、と語ってくれた。そして、「現地で書かれた書物を読むにも、直接現場を見ることにより、違うように見えてきます。私の場合、インドに行って初めて腑に落ちたことがたくさんありました」と自身の経験を交えながら現場を知ることの大切さを語ってくれた。
また、視野を広く持つことについても、「色々なことに関心を持つことは引き出しを多く持つということ。国際政治を学ぶ上で必要となる様々な分野の知識を身につけ、複眼的に思考し、対応力をつけていってほしいですね」と笑顔だった。
研究科での教育を振り返って
IDEC(国際協力研究科)は、研究科の統合を受け2020年4月より廃止される。先生が教鞭をとっていた開発科学専攻平和共生コースは人間社会科学研究科の1プログラムとして生まれ変わる。それを踏まえてIDECでの教育について尋ねてみた。「大学院教育をIDECで続けてきた一番大きな理由は、英語で完結できるという点です」
もともと先生は、社会科学研究科でも教鞭をとってきた。そうした経験を踏まえ、世界中の人々と何の抵抗もなくアカデミックな交流ができる英語での学びを実践してきたIDECの魅力を語ってくれた。「政治学以外にも幅広く国際的な教育研究ができるのがIDECの魅力です」
また、留学先で様々な国から来た留学生と共に学んだ自身の経験から、IDEC独自の国籍を越えた教育環境は先生の理想が詰まっていたと話してくれた。「研究科がバラバラになることは残念ですが、ここでできたことを維持していきたいですね」と抱負を語ってくれた。
新たな研究科でもIDECの良さが引き継がれていくことを願っている。
吉田 修
ヨシダ オサム
平和共生コース 教授
1990年10月~1994年3月 名古屋大学法学部 助手
1995年~2001年 広島大学法学部 助教授
1997年~1998年 広島大学大学院社会科学研究科 担当
1998年~ 広島大学大学院国際協力研究科 担当
2001年~ 広島大学法学部 教授、大学院国際協力研究科 担当
2004年~ 広島大学大学院社会科学研究科 教授、国際協力研究科 教授(併任)